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経済発展の礎と未来 タイ財閥

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財閥が形成されていった背景② 〜オソサパ、タクシン、セントラルの例〜

農業が主要産業であったタイだが、1960年代以降は政府による工業化促進政策が積極的に進められていくようになる。最終消費財を中心とする輸入代替産業を皮切りに、80年代半ば以降は輸出志向産業と重化学工業に対して支援政策が打ち出された。これらの政策は高い経済成長を生み、さらには円高に起因した外資の投資ラッシュを巻き起こした。
タイ政府が外資誘致を目的に行った投資優遇政策は、合弁企業設立を加速させ、外国資本や生産技術、経営ノウハウが地場企業に急速に浸透していった。サイアム・セメントやサイアム・モーター、サハ・グループなどの地場企業にとっても、日系企業をはじめとする外国企業の進出が事業多角化の契機となった。

しかし、このような多角化・コングロ マリット化は市場の狭さや経済政策だけで説明することはできない。特に華僑・華人系の財閥においては、いわゆる「世代交代」が多角化・コングロマリット化を促進させていったという側面があるのも事実だ。

ペ・オーサタヌクロ氏が1930年代に開始した漢方薬の輸入販売店「徳興裕(Osothsapha (Teck Heng Yoo)) 」(オソサパ社)は、戦後に漢方・西洋医薬の製造販売に乗り出し、大正製薬との技術提携で「リポビタンD」の製造を開始してから著しい成長を遂げた。2代目のサワット氏がオソサパ・グループとしての企業体を確立していくが、サワット氏の子の時代になるとリース業、金融、不動産、輸出向けに食品加工、靴、カバンといった製造業やエビ養殖と事業を展開、多角化していった(図表1)。

また、絹や綿製品の製造・輸出を行ってきた北タイ起源のシナワトラ家も、チェンマイを中心に商業やホテル営業、不動産事業と拡大していき、3代目のタクシン氏の世代になってからテレコミュニケーション分野に進出した。世代交代を契機にファミリービジネスから多角化・コングロマリット化へと変化していったもうひとつの例だ。

最近まで、タイの有力華僑・華人は子だくさんを福としていたことから、複数の夫人を持ち大家族を形成していた。セントラル・グループ創業者であるティアン・チラチバット氏には26の子がおり、孫の世代になると一族は60人を超えた。中国では家族の事業を長男だけが引き継ぐ風習はなく、能力のある人物なら次男、三男、また娘婿でも適宜重要な役割を与えてきた。そのため、事業が多角化しても家族内で十分に対応することができたのである。

タイの財閥はアジア域内の華僑・華人ネットワークを利用して事業拡大を行ってきた。創業者の子孫たちは中国や香港、シンガポールに派遣・留学などさせていたが、中華人民共和国が建国された49年以降はアメリカや日本、オーストラリアへと渡航先を変更していく。そこで彼らは語学をはじめ、新しい生産技術や商品知識、経営学などを学び、それらを持ち帰り反映させることで財閥の事業に新しい風を吹き込んでいった。財閥が新規事業へ進出しても、成功を収めることができたのは、それらの技術や知識を活用したからだと考えられる。

世代を超えて、事業基盤となるファミリービジネスを拡大・再編してきたグループも存在する。カシコン銀行を展開するラムサム・グループやバンコク・メトロポリタン銀行を展開するBMBグループなどだ。これらのグループは、家族成員間に主要ビジネスを分担させながらも、一族の特定の人物にグループ全体の統括権を集中させた。その思想背景にあるのは、中国の家族経営、伝統的な企業経営の考え方である「家財の保全・拡大」であり、「家族全体の財産」の拡大を目的としている。このような形態はセントラル・グループやサハ・グループ、CPグループにも確認できる。

アジア通貨危機をきっかけに財閥に迫る危機と制度改革

1997年7月にタイが震源となって起きたアジア通貨危機と、その後タイ政府がIMFおよび世界銀行の監視のもと着手した、金融制度改革と企業経営改革は財閥に大きな影響を与えることになる。

アジア通貨危機では、バーツの対ドルレートが50%以上切り下げられ、地場企業に巨額の為替差損と外貨建ての借入れによる債務負担の急増を引き起こした。これに伴うタイ国内の深刻な不況、過剰債務、金融機関の不良債権処理と貸し渋りは地場企業のさらなる経営悪化を引き起こし、悪循環に陥らせた。
さらにアジア通貨危機後、タイ政府は銀行・企業との癒着構造を断ち切るための改革として、コーポレート・ガバナンスの確立を求める。具体的には最低3名の外部重役の任命、独立した監査委員会の設置、厳格な会計基準などが求められ、それまで閉鎖的なファミリービジネスを展開していた企業を直撃した。
この頃から外国企業の東南アジア展開は本格化し、競争激化や地場企業の買収なども起きていくようになる。同時にファミリービジネス企業は消滅や解体、縮小を余儀なくされた。

アジア通貨危機からの一連の流れの中で淘汰されたのは、90年代の高度経済成長期に過度な借入れやドル建てローンに依存して急速な多角化を行った一方で、経営組織改革には消極的で特定の事業には特化しているが、閉鎖的な家族経営企業が主であった。
対照的に、生き残りに成功したのは成長産業に事業を特化させ、かつ専門経営者の登用にも積極的な開放型の企業や、急速な多角化を推進しながらも、アジア通貨危機以降、債務再構築に乗り出し、「選択と集中」によってコア・コンピテンスを明確化、グループの事業基盤をグローバル化することで、自由化の時代においても比較優位性を発揮できた、近代型ファミリービジネスを築いた企業であった。

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